富岡製糸場の歴史と見どころ!世界遺産の登録の理由はなに?

この記事では、群馬県にある富岡製糸場の歴史や見どころ、世界遺産に登録された理由についてまとめています。

• 学生の頃に教科書で習ったような気がするけど、富岡製糸場ってなんだっけ?
• 何がすごくて製糸場が世界遺産になったの?
• 見学に行くにあたって歴史や見どころが知りたい!

このような疑問に答えていきます。

明治維新を契機に近代化に向けて動き始めた日本が、外貨獲得のために力を注いだのが「生糸」の輸出でした。

日本で初めに作られた富岡製糸場は、官営模範工場として日本各地にその技術を広め、日本の絹産業の近代化を大きく牽引しました。

2014年には、世界遺産に登録され群馬を代表する観光スポットになっています。

そこで今回は、「富岡製糸場の歴史と見どころ!世界遺産の登録の理由はなに?」と題しご紹介していきます。

富岡製糸場の歴史や見どころ

富岡製糸場建設の経緯や、当時の建設技術の高さについて歴史から学んでいきましょう。

富岡製糸場の歴史

紀元前の中国で生まれた絹とその生産技術は、その後日本にも伝えられ、各地で伝統的な養蚕・製糸技術が育まれてきました。

江戸時代末期になると、日本の生糸は海外にも輸出されるようになっていましたが、鎖国に伴う近代技術導入の遅れから、伝統的な製糸技術だけでは急速な需要拡大に対応できず、生糸の品質低下を招きました。

輸出国からの評判も下がる中、明治政府は「富国強兵・殖産興業」に重点を置き、主要輸出品の1つに生糸を定めたのです。

さらなる貿易拡大を実現するためには、生糸の品質向上と大量生産を可にする新たな技術の導入が不可欠と考えた明治政府は、当時、製糸業を主要産業の1つとしていたフランスから技術移転を図りました。

設立指導者として招かれたポール・ブリュナは、まず原料となる繭が入手しやすい地域の調査に取り組み、伝統的に養蚕が盛んで土地も広く、製糸業に欠かせない水も豊富に確保できる富岡を製糸場建設の予定地に定めました。

こうして1871年に建設が開始された富岡製糸場は、翌年の1872年に日本初の官営工場として完成します。

一方で、富岡製糸場の建設と並行して行っていた労働力の募集は、外国人指導者のもとで働くことに抵抗を感じる日本人も多く難航していました。

やっとのことで集められた女性たちは、富岡製糸場で生糸の生産技術を学び、のちに器械製糸の指導者となり、全国各地に技術を広めました。

また、創業当時の工女たちの1日の労働時間は約8時間で週1日は休み。食事は工場側が提供し、敷地内には寄宿舎や診療所も完備という好環境で、女性の社会進出の先駆けとなる工場でもありました。

しかし、1893年に富岡製糸場は三井家に払い下げられ、官営工場としての歴史に幕を下ろします。

その後も、製糸場は別の民間事業者へと引き継がれましたが、化学繊維などの普及による生糸価格の下落などにより1987年に操業を停止しました。

富岡製糸場の見どころ

世界遺産には、富岡製糸場とともに絹関連遺産群も登録されています。以下に順番にご紹介していきます。

富岡製糸場

和と洋の建築技術の融合が見られる繭倉庫や繰糸場など、ほぼ建設当時の姿のまま残っています。

資材となった窓ガラスや蝶番はフランスから輸入され、石や木材などは地元、群馬県から調達されました。壁に使用されているレンガはブリュナ自身の指導で日本の瓦職人によって製造されていま
す。

田島弥平旧宅

通風を重視した蚕の飼育方法「清涼育」を確立した養蚕農家田島弥平によって、1863年に建造された主屋兼蚕室です。

瓦葺きの総2階建てで、屋根には「越し屋根」と呼ばれる風通し用の口が設けられています。

これは、のちの近代養蚕農家の原型となっていて国史跡に指定されています。

高山社跡

通風と温度管理を調和させた「清温育」という蚕の飼育法を確立した高山長五郎の生家です。

養蚕教育機関である高山社の設立後は、養蚕法の研究・改良や組合員への指導が行われました。

指導の中で生まれた技術は、国内のみならず海外にも伝えられ、「清温育」は日本の標準養蚕法となりました。

荒船風穴

1905年に建造された、岩の伱間から吹き出す冷風を利用した国内最大規模の蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設です。

冷蔵技術を活かし、当時は年1回(春蚕中心)だった養蚕を複数回可能にし、繭の大幅な増産に大きく貢献しました。

現在も当時と変わらない冷風環境が維持されているこの施設は、国史跡に指定されています。

富岡製糸場が世界遺産に登録された理由

富岡製糸場が世界遺産に登録された理由は2つあります。

理由①フランスから輸入された養蚕技術が、完全な形で日本に移転した

富岡製糸場は、産業としての養蚕技術がフランスから明治維新後の早い時期の日本に、完全な形で移転されたことを示す遺産になっています。

長年にわたる養蚕の伝統を背景に行われたこの技術移転は、養蚕の伝統そのものを抜本的に刷新しました。

富岡はその技術改良の拠点となり、20世紀初頭の生糸市場における日本の役割を証明するモデルとなりました。

理由②和洋折衷という日本特有の産業建築様式を生み出した

富岡製糸場と絹産業遺産群は、生糸の大量生産のための一貫した全行程の優れた見本となっています。

計画段階から工場を大規模なものにしたことと、西洋の最良の技術を計画的に採用したことは、日本と東アジアに新たな産業の方法論が伝播するのに最もふさわしい時期だったことを示しています。

19世紀後半の大きな建築物群は、木骨レンガ造など和洋折衷という日本特有の産業建築様式の出現を示す卓越した事例でした。

まとめ

ここまで「富岡製糸場の歴史と見どころ!世界遺産の登録の理由はなに?」と題しご紹介してきました。

日本の近代化への礎として明治時代に建設された富岡製糸場は、操業を終えてもなお、ほぼ完全な状態で今にまで保存されています。

これを機に、重厚な歴史を感じることのできる富岡製糸場に一度訪れてみては如何でしょうか。

それでは今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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